カメラを人に見たてて・・・

カメラを人に見たてて・・・と言う事でお話しています。 カメラというものは光の情報を記録する装置でありますが、人もまた見たもの聞いたものなどを「言葉」にすれば形容詞になるけれどもその中身は色で記憶しているようなものですよというお話だったのですが、なんとなくイメージはつかめて頂けたでしょうか?(笑

また色についても、人は白というものが「大体という概念」で判断できるけれども、カメラには最初に「これが白」というものをきちんと設定してやる必要があり、その白を基として様々な色が割り振られるようになってるということで、そう考えると人の白黒の判断、善悪の判断なんかは案外曖昧でいい加減なところがあるのだから、人と違う主張になったときでも、目くじら立ててそんなに対立しなくてもいいですよ・・・というお話でしたね。

カメラを人に見立てるとなかなか面白い発見があります。

カメラを人に見立てるとなかなか面白い発見があります。

究極的にはそんなものなんだと思うのです。 ああだこうだと言ったところで深く探っていくとその根拠はあるようでなかったり、また想像妄想などといった思い込み固定観念だったりして、はっきり言ってしまうとそんないい加減なところでお互いが主張し衝突し合ってるんですね、日常というものは。

色即是空・・・ではなぜ色が決まるのか?

色即是空という言葉があります。『色(しき)とは現象界の物質的存在。そこには固定的実体がなく空くうであるということ。(広辞苑)』とありますが、そう見ますと実際にカメラに記録される光としての色も本当は何もないと言う事になりますが、白を決めてやるとそこからの差で色というものが振り分けられていく・・・というような感じですかね。

すると人としての色は何を基準にできているかと言えばそれは自我とか自意識なんでしょう。そういうものが「白」として存在しているから、そこから様々な色(あるいは喜怒哀楽、四苦八苦などの感情)がそれぞれ振り分けられますが、それだって元々は本当は何もなくて「自分」とか「白」というものを決めるからそういうものが出来てしまっただけ・・・という見方が出来ますがいかがでしょうか?

任意としての「白」であり「自我」。

荒井義雄先生の見た「意識は光」

荒井義雄先生の見た「意識は光」

つまり「差を知る」とか「色を知る」ことにより自分という仕組み、宇宙という仕組みを知るために白を設定するだけであり、自分の白やそこから生まれた色を絶対として、そこにおぼれるべきではないですよ・・・ということなのですね。

何かカメラから壮大なイメージの話になってしまいましたが(笑、そういう意味では、好みはあるでしょうが一般的に「良い写真」というのは被写体越しに自分の意識を投影している感じを受けましてメッセージとか意図を感じますが、現実の色としての情報に、更に自分の意識の部分の色も重ねてあるから何かしらの表情(エネルギー)があるのでしょうね。

それが構図とかピントとかカラーバランス、陰影なんかで出てくるのでしょうが、私としては「宇宙性」が出てる写真や作品に成れればいいなぁという思いで撮影、創作していきたいと思っております・・・「波動が出てる写真や絵」ですね(笑。