名古屋に行ってきました!
先日は月に二回行われる名古屋道場での修練を行ってきました。長い方はもう4年以上も続けておられますが、だんだん体も心も出来てきているようで何よりです。
こういう修業系のものはやりこんでいくと顔つきだったり、姿勢、また所作なども変わってくるものでして、見た目にも若く美しくなってきたり、ある種の神々しさというのでしょうか?(笑・・・おおげさですけどそういう感じの波動が出てくるものです。
逆にくたびれてきたり、厳しい表情などになってくるのであれば、それは間違った修行をしているということで考え直さないといけませんね。
無用な緊張や力みなどが日常生活の中でも抜けてくるようになると、何かに追われるとか、何かに備えて・・・という意識が薄れてきます。そういう意味でよく忘れ物をしたり、あくびがでたりと、結構いい加減なところなんかもでてくるのですが、こういうものも本当の意味での「いい加減」であればそれはそれでよしとするもので、荒井先生はよく笑ってほめてくれたりします。
「人間万事塞翁が馬 (じんかんばんじさいおうがうま)」さらにその先まで・・・。
有名な故事成語に「人間万事塞翁が馬 (じんかんばんじさいおうがうま)」というものがあります。
昔老人がいました。ある日その老人が飼っていた馬が逃げ出して周囲の人から気の毒思われていたけれど本人は「そうでもないかもよ」という。そうすると逃げた馬がほかにもたくさんの馬を連れて帰ってきます。 それをみた周囲の人が今度は「良かったね!」というとその老人は「そうでもないかもよ」という。そうなると今度は老人の息子がその馬に乗っていて怪我をします。 またそれを見て周囲が気の毒に思うのですが、例のごとく老人が「そうでもないかもよ」と言うと、今度はその怪我のせいでその息子は戦争に行かずに済んだ・・・というお話ですね。
まぁ、一つのたとえ話として参考にしていただければいいのですが、このように何が起きたとしてもそれが幸か不幸かは二転三転したりするところがありますし、それはそれで受け手が上手にとらえれば、トータルとして安定というものがついて回るものなんですよね。
「良い忘れ物」になればいい。
さらに言いますと宇宙法則とか真理という面から見ていくとするならば、良い波動、振動数を有する者は順調にハーモニーが成立し上昇していきますが、逆の性質のものを有する場合は何が起きようともそれによって衝突が絶えず、破壊へと繋がってしまうものなのです。
だから先ほどの例えで言うと、忘れ物をすることによって何かそれが良いきっかけにもなりえますし、逆にそれがきっかけでとんでもないトラブル、そしてまたその先へとつながっていく場合もあるということなんですね。
というわけで、まずは日常において何が起きたとしても「そうでもないかもよ」と思えるようになるのが一つの目安かもしれませんね。(笑
そうはわかっててもやっぱり動揺してしまう・・・という人は、しつこいようですけど体をつくって行くべきです。